「オタルナイ」という地名が、文献上はじめて登場するのは、1700(元禄13)年、松前藩が幕府に奉じた「松前島郷帳」で、アイヌの居所140か所が記入されており、その中に、「一、よいち・一、しくつし・一、かっち内・一、おたる内」とある。
小樽内は1781(天明元)年頃から、鰊漁の出稼ぎが増えて急激に発達する。1856(安政3)年、それまで女人禁制で積丹半島の神威岬を越えて妻子が往来することができなかったのが解禁となり、そのあとに和人の定住者が急増する。そして中心地には、商店も建ち並び市街化する程になる。
1880(明治13)年、札幌と手宮間に、北海道では最初、全国でも3番目の鉄道が開通する。鉄道が開通すると、石炭積出しと共に一般貨物の運搬も重要な役割を果たし、港湾活動も活発になる。
明治20年代以降、本州の農村構造が解体すると、本州方面から年々移民の渡航が急増する。明治30年小樽に道内初めての移住民休憩所が建設され、小樽港は移民上陸の玄関口としても賑わいを増すようになる。
1922(大正11)年、区制にかわって小樽に市制がひかれ「小樽市」が誕生する。人口11万7千900人余、区制になったときの人口の約倍に増加した。翌年の1923(大正12)年には、待望の小樽運河が完成する。小樽港は国際港湾としての形態ができ、いよいよ小樽黄金時代を迎える。
細川 龍道(ほそかわ りゅうどう)。小樽正行寺開基住職。1909(明治42)年、小沢村(現 北海道岩内郡共和町)出身。農家の三男として生まれる。小学校教諭として教鞭を執っていたが、病気のためやむなく退職。その後、浄土真宗本願寺派の僧侶となる。小樽別院の役僧として法務に従事。その後、塩谷に説教所を開く。1948(昭和23)年、現在の長橋に小樽正行寺を建立する。
龍道師の布教活動は、当時珍しい映写機を用いて行う特徴的なものであった。そのことから、一部の門信徒や僧侶からは「映写機の細川」と称された。映写機をかかえ熱心に布教に歩きまわるその姿は、今も語りぐさとなっている。
現在の小樽正行寺は、1983(昭和58)年、第二世住職、佐藤正一師が、再建立したものである。